以前の記事
フォロー中のブログ
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
スコットランド、
産業の火が消えてすっかり冷えきってしまった田舎町。 その町で暮らすリアムは学校には行かず、 養護施設時代からの親友ピンボールとつるみ、近所の子供たちに望遠鏡で土星を見せたり、パブの客にタバコを売りつけたりして小遣いを稼いで過ごしている。 リアムの母親のジーンは、彼女の恋人でドラッグの売人をしているスタンの身代わりで刑務所に入っている。 しかし、あと二ヶ月ほどで迎える、リアムの十六歳の誕生日前日に、 母親は釈放される。 リアムは今、スタンらと共同生活しているが、 母親が出所しても、スタンと一緒に暮らし始めたらきっとまた 刑務所に行かされることになると確信している、 リアムは母親の釈放をきっかけに、なんとかして母親と二人で 暮らそうと考えている。 ある日リアムは町のはずれの湖畔にコテージを見つける。 ここでならスタンのような連中と離れて母親と二人で暮らせる。 しかし、6000ポンドという大金はタバコを売っただけで 稼げるような金額じゃない。 そんな時、偶然スタンのドラッグの隠し場所を知る。 そして、まんまとドラッグを盗み出しピンボールと共に売りさばきコテージの頭金を払う、 しかし、まだまだ足りない。 そこでリアムは大物ドラッグディーラー、ビッグ・ジェイの客を横取りし始める・・・。 主人公のリアムを演じたマーティン・コムストンは演技経験ゼロの素人。 学校の先生に頼まれて、仕方なく受けたオーディションで見事主役に選ばれてしまい、断った。 なぜならその時彼は、スコットランド三部リーグのサッカーチームと契約したばかりの プロサッカー選手だったから。 僕もサッカーが好きで、高校でサッカ−部に所属し卒業後は 草サッカーチームでプレイしていました。 僕が子供の頃はまだJリーグはなくて、海外の情報もテレビで全然やらない。 雑誌も買わないからマラドーナくらいしか知らなかった。 キャプテン翼というサッカー漫画に影響され、主人公翼くんのドライブシュートや、 わざと水で濡らして重たくしたボールを蹴って、ライバル日向くんのネオタイガーショットを練習してた。 漫画ではゴールネットを突き破るほどの威力があったんだけど、僕は足首を痛めただけだった。 チームに入っていなくても毎日ボールが見えなくなるまで 練習していた。 そういえば、朝六時に友達を集めて朝練もしていた、 今考えるとみんなよく集まってくれてたと思う。 時々、自転車で遠くの公園まで対戦相手を探しに行って、 どこの学校かも分からない子たちと試合をしていた。 ただ楽しくてとにかく上手くなりたくて一生懸命ボールを蹴っていた、あんなふうに夢中になれることがあって、それに取りくめるというのは実はそれだけで幸せなことなんだと今なら分かる。 撮影当時マーティン・コムストンは十七歳、一流のサッカー選手になることが夢だった。 しかし、たくさん悩んで最後は父親に説得され今作の主役を引き受ける。 やるなら中途半端はしたくないということで、チームを退団し今は役者の道へ進んでいる。 そんな彼の演技はケン・ローチ監督の見事な演技指導のおかげか、天賦の才か。 演技経験ゼロなんて嘘でしょ?と思える程、演じていると感じさせない素晴らしい演技、 ただひたすらに母を想う子供の純粋さと、狡猾な大人を出し抜くしたたかさを併せ持つ 十五歳の少年リアムに見事になっている。 演じているのではなく、リアムがそこにいる。 と、感じるほど素晴らしい。 リアムは学校へも行かず、まともな教育を受けていないが、 学校のお勉強とは別の賢さを持っている。 機転が利き、仲間をかばう男気もあり。 さらにユーモアと度胸も持ち合わせている。 リアムがその潜在的な才能を発揮して能力の高さを示せば示すほど、ピンボールとの距離が離れてしまう。 リアムが事も無げに階段を上がって行くのに、ピンボールにはその階段が見えない。他にハシゴもロープも見当たらずその場でジタバタするしかない。 リアムはどんどん高い所へ行ってしまう。 リアムのように賢くも強くもない僕は、 大切なものが遠くにいってしまうのにどうしたらいいのかわからず、 ただただ弱さをまき散らすことしか出来ないピンボールに とても強いシンパシーを感じてしまう。 ピンボールに両親はおらず、詳しくは語られないが父親はドラッグ中毒で死んでしまったらしい。 リアムには、多少問題はあろうとも優しい母親としっかり者の姉という家族がいる。 全く描かれていないので推測することしか出来ないけど、幼い頃から一人で生きてきたピンボールはリアムよりもっとずっとしんどい思いをして生きてきたんじゃないかと思う。 リアムはある人物に、ピンボールとつるんでいたら出世の邪魔になるから距離をとれと言われるが、 『ピンボールにとって家族は俺しかいないんだ』と、反論する。 心理学でよく言われる、幼い頃に満足な愛情を得られなかった場合、誰かにかまってもらおうと、わざと怒られるようなことをしたりして、善くも悪くも目立ってとにかく人の気を惹こうとするようになる。 まさにピンボールはその通りの行動をとる。 リアムが高い場所へ行くのにしたがって、ピンボールの破滅的な行動はどんどんエスカレートしてゆく。 それはリアムを傷つけることに成功するが、同時に自分自身も深く傷つくことに自らの血を流すまでまったく気がつかない。 そのピンボールの幼く純粋な思いはリアムが母を思う気持ちと同じもの。 それが分かっているリアムはどんなに傷つけられてもピンボールを救おうとする。 いや、リアムはピンボールだけではなく母親と姉のシャンテルと姉の息子のカルムも救おうと必死だ。 やがて迎える誕生日、 電話の向こうから姉のシャンテルがリアムに告げる、 “今日はあなたの十六歳の誕生日・・” 温かいはずのありふれたこの言葉は、 リアムの心を素通りし、観ている僕の心に冷たく触れる。 スコットランドでは十六歳から刑罰が厳しくなる。 この甘くない物語のその先を考えるとき、 リアムのように母を求めず、反面教師として母を見て、 一人息子のカルムをしっかり育てようとしているシャンテルからの、 この一本の電話に、繋がりに救われる。 #
by cinefoot
| 2006-04-08 04:36
現代から置き去りにされたような中国の田舎町。
そこで、母親の形見であるヴァイオリンを弾く少年チュン、 父親のリウは、息子には特別な音楽の才能があると信じてやまない。 そして、チュンに一流の指導を受けさせるために、 リウは全財産を帽子に詰めて、 二人で大都会、北京へやってくる・・・。 子供の頃、ハーモニカが上手く吹けずに、 泣きながら練習しました。 けれどまるで、ダメでした。 最終的には 「こんなにいっぱいある小さな穴の、一つだけに息を吹き込むなんて、 そんなのありえないよ、奇跡だよ・・」 と、いうことでハーモニカは奇跡の楽器となり、 とうてい僕の手におえるものではないのであきらめました。 次に教わったのが縦笛です。小学校でソプラノ、中学校ではアルト。 すでに、ハーモニカで楽器というものに恐れをなしていた僕は、 これもなかなか上手くならず苦労しました、 しかし、血の滲むような努力の末に、ただ一曲だけ、 『エーデルワイス』だけは吹けるようになりました・・・。 もしも、幼い頃から教わっていればどんな楽器も 演奏できるようになるんでしょうか? 主人公のチュンにはただ上手く演奏できる以外の 特別な才能があるようでした。 父親のリウはチュンが一流のヴァイオリニストになるために、 本人よりも必死になっている。 その情熱はたとえコンクールの順位が才能だけでなく、 お金で決まるものだと知っても全く衰えない。 とにかく息子を一人前の音楽家にさせるのだと、 不格好でまわりには滑稽に映っても、まさに人生を賭けて、 全精力を傾けて奔走する。 当の本人のチュンは、父親の気持ちはよくわかっているけれども、 クールに淡々としていて、自分のペースを崩さない。 十三歳の男の子らしく切り抜いたグラビアを楽譜にはさんだり、 偶然知り合った近所の年上のお姉さんのために演奏したり。 けれど、それはもしかしたら見た事のない母親を、 どこかに重ねていたのかもしれない。 父親はそんなチュンの気持ちに気付いているのかいないのか、 ひたすらヴァイオリニストにするために、たとえ息子が気に入らないであろうことも、 それが一人前の音楽家に近づくためならと、断固とした決意と愛情で強引に進めて行く。 しかしなぜそこまで? 息子をヴァイオリニストにして大金を稼がせるため? しかし、リウは自ら汗を流して働いて稼いだお金以外は、 誰のどんなお金も受けとろうとしない。 では、いったいなぜ? その、時に行き過ぎるほどのひたむきさの理由は? そして、その理由を知ったチュンのとった行動は? ・・・『エーデルワイス』から数年後、 自分には音楽の才能がないと知りながらも、 音楽を奏でる喜びと楽しさを知ってしまった僕は、 アコースティックギターを手にしていました。 ある日、友達の家に集まってギターを教えてもらっている時、 ふと誰かが言いました。 「楽器って、その人の人間性がでるから、 優しい人が弾けば優しい音が、鳴るんだよ」と。 その当時、ギターの弦で堅くなった指先も、 今はぷよぷよになってしまった。 それでも、いつか自分の音を鳴らせるようになりたい。 それから、そのうち、もしも、気が向いたら、 奇跡の楽器に再び挑戦してみようかな。 音楽って素晴らしい。 #
by cinefoot
| 2006-03-16 05:42
家を失った貧困者たちが、
天国を夢見てやってくる場所。 通称、神の街。 ブラジル、リオデジャネイロ。 カーニバルの観光イメージからはほど遠い、 もうひとつの現実。 60’年代 ブスカペ。 まだ、将来何になりたいかなんてわからない。 父親のやってる魚屋はサカナ臭くなるから嫌だし、 警官やギャングも嫌だ、だって弾丸が恐いから。 リトル・ダイス。 神の街のチンピラ“伝説の三人組”と行動を共にしながら、 虎視眈々と神の街のボスの座を狙っている。 70’年代 一時期行方をくらましていたリトル・ダイスは、 “リトル・ゼ ”と名前を変えて神の街に帰ってくる。 街で一番儲かる麻薬に目をつけると、 たった一日で元締め達を撃ち殺す。 しかし、幼なじみであり相棒のベネの頼みで、 ベネの友人のセヌーラとそのシマだけは見逃す。 そして、あっという間にスラムのほぼ全域を手に入れる。 その結果、抗争がなくなり街に平穏な日々が訪れる。 だが、街を完全に牛耳って神の街のボスになりたいリトル・ゼは、 セヌーラが目障りでしかたない。 ブスカペはジャーナリストを目指し、 16歳のとき一番安いカメラを買った。 しかし、今はまだビーチではしゃぐ友人たちの専属カメラマン。 それでも、プロになるためにジャーナリストの最も末端に位置する仕事、 新聞配達をはじめる。 平和になったはずの街では、まだ十歳にもならないような子供ばかりの 新たなグループが、ギャング気取りで強盗をくりかえす。 神の街の平穏は長くは続かず、小さな火種がやがて大きな炎となり、 街は戦場と化して行く・・・。 誰かの言葉にむかついた。 そいつを殴る事は簡単で、我慢するのは難しい。 楽な方へ流される?困難に立ち向かう? 選ぶ基準は自分のため?誰かのため? 人生は選択の連続。 けど、全問正解した人なんていない。 この映画の二人の主人公、リトル・ゼとブスカペ。 一人は街の頂点を目指し、 もう一人は街から出てゆく事を目指す。 時間軸をずらし現在と過去を行ったり来たりしながらも、 巧みな演出で混乱することなく見れる群像劇。 リトル・ゼは悪の才能を思う存分発揮して、 最も単純な方法で街の頂点へ駆け上がっていく。 しかし、まだ十代の子供。 殺戮ばかりしてるわけではなく、 親友のベネに言われて恋人を作ろうとしたりもする。 けれど、残念ながら女の子を口説く才能は全くなかった。 誰かを愛し、誰かに愛される、 そんな経験がなかったのかもしれません。 ブスカペも、新聞社のカメラマンを目指しつつ、 素敵なアンジェリカとイイとこまでいくけれど最後まではイケず。 結局、街で一番のイイ奴でイイ悪党のベネにもってかれる。 まぁ、実のところこういうことは大抵の場合、経験や才能の問題ではなく、 複雑に絡み合ったいくつもの要素が原因で、上手く行かない事の方が多いです。 確実に上手く行く方法があれば教えて頂きたいです。 しかし、そんなことにめげる事なく夢に向かって努力を続けるブスカペ。 それでも、嫌な事ばかり続けば投げやりにもなる。 誰にだって一度はそんな時があるもので、悪の道へ踏み込もうとする。 けれど、それもさっぱり上手く行かない。 やっぱり、地道に頑張ろうと思い直す。 こんなふうに世界中どこの街でもありそうな光景の中で、 子供たちが殺し合う。 それは、暗闇の中ではなく。 真っ昼間、抜けるような青空の下、降り注ぐ太陽を浴び、 洗濯物がはためく路地裏で繰り広げられる。 思わず頬がゆるんだすぐ後に、 笑顔も凍り付く瞬間に出くわす。 現実に僕たちはそんな瞬間と同居している。 普段、忘れがちだけど生きているということは、実は誰だって常に命がけ。 僕は人を殴ったことも、人に殴られたこともあります。 自分の信じた正しさを突き通すために孤立することも多々あります。 殴られるのは痛くて嫌だし、孤立したら不安にもなります。 それでも本当に恐いことは痛みや不安に負けて、 自分を見失うことだと思います。 人生は選択の連続。 きっと、誰もがリトル・ゼのようになる可能性も、 ブスカペのように生きる可能性も持っている。 けど、全問正解した人なんていない。 時間は取り戻せないけれど、 間違えたと思ったら、やり直すだけ。 それでも、ブスカペのように 『やらなくちゃいけないことがある』と、危険に飛び込む。 ここぞという瞬間は是が非でも正解したいところです。 いくつもある残酷なシーンから目をそらさず、 リズミカルでカッコ良すぎる映像を存分に楽しみつつも惑わされず。 実話を元にした、この作品のメッセージは何なのかを感じて欲しいです。 #
by cinefoot
| 2006-03-07 04:33
|
ファン申請 |
||